江戸時代米問屋だった真田は1904年に東本願寺より「山城屋」という屋号を賜り、香川県で煮干問屋を開業した。高松では瀬戸内海の魚がとれるため、真田サダは貧しい漁師に煮干しを持って来たらごちそうを与え、煮干しを大量に集めた。真田サダは「商いの元は生産者に有り」のビジネスモデルを生み出し、山城屋に大きな財をもたらした。
1945年戦争で全てを失った。空襲によって全戸焼失、跡継ぎも病死、真田サダに残されたのは孫のみであった。しかし、孫は商売人には不向きであり真田サダは「しっかり者の嫁」を見つけるしか無いと考え、30名もの娘たちと面接し嫁を選んだ。真田サダは孫の結婚式の1ケ月前に脳梗塞でこの世を去った。
1953年真田サダに見初められた、嫁真田悦子は頼りのサダが結婚前に死亡したため商売を教えてくれる人もおらず、病弱な夫の代わりに19歳で商売を引き継いだ。このころ山城屋は乾物問屋真田商店として商売をしていた。
1958年四国で初のスーパーマーケット「主婦の店」を見学した真田悦子は購入者が自分で商品を手に取ることが出来る事に衝撃を受けた。これからの時代はスーパーマーケットを相手に商売をするべきと周りの反対を押し切り決意した。9月にスーパーマーケットの見学に行き、10月に子供を出産、12月には大阪に出てスーパーマーケット専用問屋になるスピード判断だった。この方向転換は成功をおさめ、乾物を中心に商売を行い20年後には30億円の売り上げ実績を達成した。
1982年専用問屋では大手問屋しか生きていけない時代になってきた。今までの乾物のノウハウ、消費者の気持ちがわかる商品が出来ると考え、乾物メーカ「山城屋」に転身した。300種類の商品を開発し、売上を6億円から2005年には36億円とし真田悦子は退職した。
真田悦子は大ヒット商品「京いりごま」「京きな粉」を開発した。今まで誰も商品化しなかった難しい素材にチャレンジし、大ヒットさせた。商品開発は家族4人で必要な容量を入れる、料理方法を印刷するなど、7つのコンセプト「原料、デザイン、包装資材、商品裏の説明、容量、プライス、コンプライアンスの順守」を作り行った。
1982年に真田悦子の長男と結婚した講演者は山城屋に入社し、商売を覚えていった。2005年に真田悦子が退職した翌年・翌々年に年5%毎の売上減となり、講演者は何か手を打つ必要があると考えた。売上減の分析を実施したところ、山城屋の商品は乾物レベルの中高級志向を目指していたが、商品開発の中で中級レベルの商品を出していたことに気が付いた。中級レベルの商品は競合も多く最終的には価格競争に巻き込まれるため、このままでは売上減が続くと気付いた。打破するためには山城屋にブランドが必要であると考えた。①東山に店舗があった、②東本願寺から屋号をいただいた、③主力商品の商品名に「京」がついているという①~③の理由で「京都」をブランドにしようと考えた。2009年すぐに実行し本社移転も行った。本社が移転しただけでどうなるという反対は多かったが、講演者は自ら勉強する必要があると思い、2010年立命館大学経営大学院に通いMBAを取得し、50歳になって初めて経営の理屈が理解し経営者になれたと思った。大学院でドラッガーの教えに出会い、「山城屋を永続1000年企業に育てる。革新と共に身の丈の幸福感を追い続け、その礎を創った者として憶えられたい」と目標を決めた。講演者が考える身の丈の幸福感は1人の経営者が対応できる30億円の売上を継続することである。 |