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「エンタテイメント論」(45)

川勝 良昭 Yoshiaki Kawakatsu [プロフィール] :12月号

エンタテイメント論


第2部 エンタテイメント論の本質

2 左脳的認識と右脳的認識
●エンタテイメントの左脳的定義
 ある「モノ」やある「コトガラ」が原因となり、その結果、別の「モノ」や「コトガラ」を生む。生まれた結果が更に原因となり、新たな別の結果を生む。この様な「時の流れ」、「連鎖反応」、「因果関係」などを捉える所謂「時間的認識」は、理性的、理論的、R機能的 (本稿40号参照) な認識と言い換えることができる。

 更に、それは、1+1=2の世界に存在する理論的制御が可能な認識でもある。通常、言語、数字、数式などを使って「定義」することが出来る。この認識を司るのは、主として「左脳」の働きに依る。

 「エンタテイメント」とは何か? 左脳的に定義すると、「遊び」を核とする双方向のコミュニケーションが飛び交う時間経過のプロセスを認識することである。ある人がある人を楽しませる原因となる「モノ」や「コトガラ」を提供し、結果として提供された人がそれを楽しむ。その楽しんでいる様子を提供者が認識し、自らも楽しむ。そして更なる原因となる「モノ」や「コトガラ」を考案し、提供し、生み出された結果を共に楽しむ。この「双反応」のプロセスを時間的に認識し、理解し、納得することが左脳的な「エンタテイメント」の定義である。

●エンタテイメントの右脳的定義
 原因となる「モノ」や「コトガラ」が存在する「空間(場面)」、結果として生み出された「モノ」や「コトガラ」が存在する「空間(場面)」そのものを認識する「脳」の働きがある。その空間(場面)を全体的、包括的、感覚的に一瞬且つ一挙に捉えるという「空間的認識」は、感性的、非理論的、F機能的 (40号参照) な認識と言い換えることができる。

 更に、それは、1+1=∞の世界に存在する理論的制御が不可能な認識でもある。通常、絵、写真、動画、音、匂い、振動、食べ物などを使って定義(★)することが出来る。この認識を司るのは、主として「右脳」の働きによる。★そもそも「定義」とは左脳的表現である。それに対峙する右脳的な概念表現が見当たらないの“定義”と暫定使用した。

 「エンタテイメント」とは何か? 右脳的に定義すると、「遊び」を核とする双方向のコミュニケーションが飛び交う一つ一つの空間(場面)を一瞬且つ一括して認識することである。ある人がある人を楽しませる原因となる「モノ」や「コトガラ」を提供した空間(場面)、結果として生み出された「モノ」や「コトガラ」が存在する空間(場面)を一瞬且つ一括して受け止め、感情的、感覚的、情緒的に認識して楽しむ。その楽しんでいる様子を提供者が一瞬且つ一括して受け止め、感情的、感覚的、情緒的に認識して自らも楽しむ。そして更なる原因となる「モノ」や「コト」を考案し、提供し、生み出された結果が存在する空間(場面)を上記と同様に認識して楽しむ。この双反応の空間(場面)を空間的に認識し、感じて(理解や納得などを介さず)、ありのままの楽しむことが、右脳的な「エンタテイメント」の定義である。
出典:Human Brain. Yahoo USA
出典:Human Brain. Yahoo USA

●昔の日本人、今の日本人
 右脳的定義とは、何とも難しい作業である。そもそも文章で表現すること自体が左脳的作業である。右脳的定義に無理があるのは当然である。しかし筆者の言わんとすることは分かって貰えたと思う。エンタテイメントは、生き物であり、左脳的思考と右脳的思考の両方を働かせて初めて把握される実態を持っている。

 さて江戸時代やそれ以前の昔の日本人は、どの様な左脳的思考や右脳的思考のパターンを持っていたのか。それを知るすべが極めて少ない。彼らの声、歌、行動に依る音、騒音などを記録したもの、振動の度合、食べ物なども存在していない。

 手がかりは、彼らの思考と行動を記録した又は痕跡として残した2次元空間表現の手紙、本、絵画などと、3次元空間表現の彫刻、工作物、家具、建物、土木建造物などのハードウエア―だけである。 これらを基に多くの歴史家、研究家は、推理力と想像力を働かせ、昔の日本人を捉えた。しかしその多くのは、左脳的思考による歴史観や研究観であった。知るすべが限定されたとはいえ、何故、右脳的思考によるものが少ないのか。不思議である。

 いずれにしても、右脳的思考による歴史観や研究観が不足している以上、昔の日本人のことは一部しか分からない。しかし昔の日本人の方が今の日本人より、右脳的に優れた人物を高く評価していたのではないかと想像している(機会があれば別途、述べたい)

 今の日本人は、どの様な左脳的思考と右脳的思考のパターンを持っているか。これを知るすべは幾らでもある。そこから容易に導き出された結論は、多くの日本人は、左脳的思考を優先させていることである。

 言い換えれば、左脳的思考に優れた人物を高く評価し、右脳的思考に優れた人物を低く評価していることである。簡単な比喩で言えば、東京大学など一流大学を卒業した人物を高く評価し、地方大学など2~3流と噂される大学を卒業した人物を低く評価していることである。もっとも東京大学は最新の世界大学評価ランキングでは2流大学と評価されている。こうなると多くの日本人は、誰を評価してよいか分からなくなる。

 戦後の日本の教育システムは、戦前に比べて、圧倒的に「東大一校主義」に傾いた。そして殆どの中高の教育システムは「大学受験主義」を基準に構築された。しかも学生の評価と選抜基準は、左脳的思考に優れた人物を評価できる様に作られ、運営されている。

 その結果、右脳的思考に優れた人物でも左脳的思考が不得意な人物は、評価される前に事実上排除される。右脳的思考に優れた人物でも、スポーツや音楽などに優れた実績を発揮できない限り、まともな職業に就くことが極めて困難になった。

 現在は、超就職難の時代である。その結果、「安心」、「安定」を求めて大企業や有名企業を学生が殺到して応募する様になった。その結果、応募学生の「足切」をするために、リクルート社の「SPI」という能力・性格テストを多くの企業が使ってている。このSPIテストは、左脳的思考の優劣を評価することを基準に構築されている。右脳的思考の評価基準が不足していることは大きい問題である。

 更に、応募学生の「在りのまま」の能力や性格を判別するテストにも拘わらず、「SPI模擬試験」が実施され、多くの学生は、大学受験の様にその「模擬試験」を受けている。人為的にテスト結果を良くする試みを大企業や有名企業は既に知っているが、何も対策を立てていない。

 この足切で右脳的思考に優れた人物が就職戦線から排除される一方、左脳思考やロジカル・シンキングだけが優れた人物や東大など有名大学の卒業生が相変わらず採用されている。新しいアイデアや新しい観点を生み出せる人物は、左脳的思考だけでなく、右脳的思考にも優れた人物であることが既に分かっている。にもかかわらず、日本の大企業や有名企業は、従来型の左脳的思考優先の人材採用を続けている。その様な企業に「未来」はない。

●激変する世界で求められる人材
 「正解が無い社会で求められる人材」こそ必要であることは周知の事実である。それどころか、「正解を是が非でも創り出す人材」を登用し、激変する世界で生き残りを賭けて挑戦しないと日本の企業どころか、国自体が傾いてしまう。

 筆者は、20数年前から何度も、何度も機会ある毎に「日本の危機説」を訴えてきた。その内容を再度述べないが、結論だけ言えば、左脳的思考に優れた人物では日本の危機を救えないことである。右脳的思考に優れた人物を日本の檜舞台に引っ張り出し、彼らの「夢」を実現させることである。しかしそれだけで十分であろうか。

 日本の多くの構造的問題は、危機的状況にある。その厳然たる事実に対処するため大手企業だけでなく、中小企業まで海外に事業進出をしている。その進出業態は、生産、製造、加工だけでなく、物流、流通の会社である。彼らは以前にも増して海外に研究、生産、販売の拠点を数多く作っている。

 この海外進出により、英語を話せる人材だけでは不十分である。異文化圏で戦えるガッツのある人材、そして異文化理解力や異文化対応力を持った人材が求められている。しかし日本には英語を訓練するビジネスは掃いて捨てるほどある。しかし何故か、異文化適応訓練、異文化理解力養成訓練、異文化受容 & 対応力養成訓練をするビジネスは皆無である。英語が話せても、ガッツと上記の力が無いと英語自体を話せないという事実に多くの企業も、国民も気付いていない。

 しかも日本人の英語力は世界最低レベルにある。更にまずいことに、未だに抜け切れない島国根性、国内志向、左脳思考型など問題ばかりある。しかも求められる人材が極めて少ない。昔からあれだけ叫ばれてきた「日本の国際化」は、ここに来て全く進んでいなかったことが分かる。「失われた20年間」どころか、日本は過去に一体何をしていたのか。日本の高度経済成長は、「モノ」の輸出による繁栄であった。一刻も早く、経済、産業、事業の分野の「コトガラ」の国際化を実現しないと、日本は本当に「島国」として世界から取り残されてしまう。その厳然たる兆候は、多くの分野で起こっている。気が付いていないのは多くの国民である。

 日本の取るべき道は、単なる「成長経済」ではない。唯一無二の日本の資源である「人材」を育成し、開花させ、それを基にした新しい商品、新しい製品、新しい事業を創造する「第2の経済復興」を遂げる道を進むことである。それが達成するまでの間、従来型の福祉、医療、教育に関する国の政策実行より、真の人材育成と真の経済、産業、事業に関する国の政策実行を優先することである。

 しかし従来型の福祉、医療、教育より優先した政策を主張し、実行する様な政治家は、恐らく皆無ではないだろうか。そんなことを主張したら「選挙票」の支持者を失い、自ら自滅するからです。「命」を賭けて国政に尽くす政治家であるかどうかを識別したければ、筆者の主張するこの「優先政策」を「本気と本音」で実行するか調べれば直ぐに分かる。

●東洋福祉大学・松山英樹(アマチャーゴルファー)
 例によって「話題のテーマ」を取り上げたい。

 それは、2011年11月13日、静岡県太平洋クラブ御殿場(7246ヤード、パー72)で行われた「三井住友VISA太平洋マスターズ・男子ゴルフ選手権」のことである。

 最終ラウンド、首位と2打差の2位でスタートした東北福祉大学2年生・19歳のアマチュア「松山英樹」選手は、2イーグル、4バーディー、4ボギーの4アンダーで回り、通算13アンダーで並みいる強豪プロ選手を尻目に初優勝を飾った。アマチャー選手のメジャー競技優勝は、1973年ツアー制度施行後、倉本昌弘選手と石川遼選手に次いで3人目。

 松山選手がアマチャーのため賞金を貰えず、2位の「谷口 徹」選手が優勝カップを除き、優勝賞金をすべて獲得した。谷口選手は松山選手について「パターが上手い。ドライバーも強い。いつでも(プロの世界に)来いや」と笑ってコメントした。

 彼は、先輩の目線で松山選手を見下した。アマチャーでも賞金やスポンサー支援を受けてよい時代である。松山選手に「優勝賞金を貰って申し訳ない」の一言ぐらいコメントすべきであった。いくら規則で決まっていても、優勝も出来ず、2位の彼が多額の優勝賞金を貰うのである。恥ずかしい気持ちはないのだろうか。
出典:松山英樹 三井住友VISA太平洋マスターズ優勝。MSN。、松山英樹 2011年・マスターズ・アマチャー優勝。TBS

 生涯アマチャー選手であり続けた人物、ジャック・ニクラウスがプロに転向したことを嘆いた人物、そしてマスターズのコースと競技を創設した人物、即ち「ボビー・ジョーンズ」がもし生きていたら、松山選手の優勝をどれほど讃えて、喜んだであろう。

 松山選手は、青木選手、尾崎選手など日本の歴代のプロ選手が「命がけ」で挑戦しても歯が立たなかったマスターズ、石川 遼選手が「優勝が夢です」と公言しているマスターズで、日本人初のアマチャー優勝を成し遂げた人物である。谷口選手が世界で最高級の評価を得ているマスターズの真価を本当に理解していたら、松山選手に上記の様なコメントをしなかったであろう。

 真の実力が問われ、真のスポーツマンシップを要求され且つ世界中のプロゴルファーが目の色を変えて挑戦する世界のプロ・ゴルフ界の中で、先輩、後輩の掟という風習や国際性を欠く古い臭い業界体質を残す日本プロ・ゴルフ界は、生き残れるのか。

 松山選手は、マスターズ優勝者が招かれる応接室に2011年優勝者「チャール・シュワルツェル(南アフリカ)」と2010年優勝者「フィル・ミケルソン(米国)」と肩を並べて着席し、マスターズ主催者から歓迎された。日本の長いゴルフの歴史始って以来の物凄い出来事である。背後の暖炉の上に「ボビー・ジョーンズ」の肖像画が飾られている。松山選手が将来、優勝のグリーン・ジャケットを着てこの部屋に招かれる日が待ち遠しい。

 一方石川 遼選手は、何故、いまだに日本にへばり付いているのだろうか。日本でチヤホヤされ、己を見失ったのか? それとも自分の実力の限界を早くも認識し、本気と本音でマスターズの優勝を狙うことを諦めたのか? 日本のプロ・ゴルフ業界の指導者は、何故彼に海外進出を忠告しないのか?

●エンタテイメント性を無視したTBS
 松山選手の競技を報道する日本の解説者やテレビ局の報道姿勢に日本の視聴者から厳しい非難が寄せられている事実を伝えたい。

 それは、松山選手を含む「表彰式」の中継を途中で切ってしまったことである。そして素人でも言える様な最低の解説者の話しを優先報道した。その実名を避けるが、放送局はTBSである。

 解説者やTBS放送関係者に、プロ、アマを問わず、マスターズ出場選手を讃える気持ちはない様である。TBS放送関係者は、マスターズの存在意義、競技中継の在り方、エンタテイメントの本質などを全く理解していない。時間延長してもマスターズの「競技中継」に次ぐ重要な「表彰式」を重視する姿勢が全くない。本放送のスポンサー企業は文句を言わんないのであろうか。視聴者からの非難は当然である。

 民間TV局の放送内容とその放送姿勢の荒廃ぶりは、今に始まったことではない。またNHK放送局もいろいろ問題を引き起こしている。視聴者を喜ばせ(感性的充足)、視聴者を満足させ(理性的充足)、視聴者と共に(双方向のコミュニケーション)新しい、優れた放送コンテンツを生み出すこと、まさにエンタテイメントの本質を充足させた放送を行うことが、それらの問題を解決する第一歩である。

●2012年・マスターズへの期待
 2011年10月29日から「第3回アジア・アマチュア選手権」がシンガポールの「アイランドカントリークラブ・ニューコース」で開催された。昨年優勝したディフェンディング・チャンピオンである松山選手は、最終ラウンドで5アンダーの67、通算18アンダーで2年連続の優勝を果たした。その表彰式に今年の「マスターズ委員会」のメンバーが駆けつけ、松山選手を祝福した。彼は、2012年の「マスターズ」の出場権を日本のプロ選手に先駆けて手にした。

 来年のマスターズに招待される日本人プロ選手は、これから決まるだろう。しかし優勝を期待できる日本人のプロ選手は、石川 遼選手を含めて誰だろうか? 正直なところ思い当たらない。情けないことであり、残念なことであるが、韓国の選手なら期待できる。

 松山選手がマスターズで再度アマチャー優勝できなくても、彼がプロに転向しなくても、また転向しても、彼が海外の地に住み、海外の一流選手と海外の激しい競技に参戦し続ければ、必ず世界のメジャー競技に優勝するだろう。そして日本人初のマスターズに優勝するチャンスを掴むだろう。

 以上の日本のゴルフに関する「コトガラ」は、そのまま、日本の経済界、産業界、事業界に当て嵌めることでできる。
つづく
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