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観察力

井上 多恵子 [プロフィール] :11月号

 ある企業でマンツーマンの英語レッスンをしていたときのこと。パソコンの接続がうまくいかず、「やっぱり、繋がらないな」と私がつぶやいた瞬間、Aさんがすかさず「先生、今月からパスワードが変わったんですよ」と教えてくれた。そして携帯でそのパスワードを見せてくれた。「打ち込むのが面倒だな」と思った私の表情を見た彼は、すぐに「LINEで送りますね」と言って、その場で送ってくれた。おかげで無事、楽にインターネットに接続できた。その前のグループレッスンでは、同じように「繋がらないなあ」と言っても誰も反応しなかったのに、Aさんの即座の対応に「さすがAさん」と感心した。
 Aさんは、いわゆる「超」がつくほど仕事ができる人だ。日常の些細な変化にも敏感で、観察力に優れている。ある日、教室に入ってくるなり、テーブルが濡れているのに気づき、すぐにペーパータオルを取りに立ち上がった。私が「後で拭いておきますよ」と言うと、「今やっちゃった方がいいかなと思って」と言い、さっと拭いてくれた。また別の日、社員食堂で食事を終えた後、私がコンベアにお盆を置いた瞬間、後ろに並んでいた彼は私のお盆をさっと持ち上げて前方にずらしてくれた。後ろの人たちがスムーズに置けるようにという配慮だった。何も考えずにお盆を目の前に置いた自分が少し恥ずかしくなり、改めて彼の周囲への気配りに感心した。Aさんは観察力があるからこそ、各瞬間に最適な行動を選べるのだろう。役職が高いにもかかわらず、仕事だけでなく日常の細部にまで目を配っている姿勢には本当に驚かされる。
 観察力に優れた人は他にもいる。運動神経が良い人も、基本的に観察力が高い。たとえばスキーで、他人の滑り方を観察してすぐに真似できる人。優れたサッカー選手は、広範囲な観察力を持っている。彼らは、ボールだけでなく、フィールド全体の動きや相手の配置、味方のポジションなどを俯瞰して見ている。だからこそ、的確なパスや判断ができるのだ。先日、豊洲市場の寿司店で朝食をとったときは、寿司職人の観察力に驚かされた。カウンターに座った私たち4人ともう一人の客に対して、彼は絶妙なタイミングで寿司を提供していた。魚を切り、炙り、隣の職人から頼まれた手巻き寿司もこなし、さらにガリが切れているのに気づくと、さっと補充していた。まさに「周りが見えている」人の動きだった。
 それに対して、私はどうか。人の表情を含む非言語メッセージを読むことには自信がある。相手が何を考えているか、どんな感情を抱いているか、言葉にしない部分まで感じ取ることができる。これは長年コーチングやカウンセリングをしてきた経験から培われてきたものだ。この観察力は、これからも大切にしていきたい。特にAIコーチングなどが活用される今、共感力のベースとなる表情や身振り、声の抑揚や調子など、非言語メッセージを読み解く力は、コーチとして今後も求められるために、ますます重要になる。
 しかし私は、広い視野での観察力には欠けていると言わざるを得ない。例えば英語のレッスン後に相手の表情は覚えていても、「どんな服を着ていたか?」と聞かれると、まったく思い出せない。表情に集中しすぎるあまり、周囲の状況や物理的な変化に気づけないのだ。その他にも、数人で食事をしているとき、誰かのグラスが空になっていても気づかず、気の利いた行動ができない。せっせと気配りをするタイプには、なかなかなれない自分がいる。最近参加した謎解きイベントでも、自分の視野の狭さを痛感した。問題文の中に「あいこ」を探せという指示があり、私は文字ばかりを追っていた。しかし正解にたどり着くには、「箸」や「橋」などペアを示す絵柄などの「じゃんけんのアイコン」に気づく必要があった。言われてみれば明らかなことだったのに、文字以外の情報がまったく視界に入っていなかった。
 私はパソコンを長時間眺めてしまうことが多いが、目を休ませるために時々遠くを眺めた方がいいと言われる。それと同様に、日常的に、「ズームイン・ズームアウト」の視点の切り替えが必要なのだろう。人との関係性を築くために表情にフォーカスすることは大切だが、時には視点を引いて全体や周囲を見ることも重要だ。より多くの情報に気づけるだけでなく、日常の中で意識的に視野を広げることで、凝り固まった脳の回路も少し柔らかくなる気がする。明日のことだけでなく、長期的な視点で起こりそうなことをイメージして「観察」してみる。昨日のことだけでなく、一年前のことを思い出して、その時を生きている自分や周りの人を「観察」してみる。自分が及ぼしている影響を、身近な人だけでなく少し広げた範囲で「観察」してみる。「ズームイン・ズームアウト」の視点の切り替えで観察力を高めていくことは様々な場面でできそうだ。

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