PMプロの知恵コーナー
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PMプロフェッショナルへの歩み―12

向後 忠明 [プロフィール] :11月号

 香港駐在は1993年から1994年6月の1年半といった短い期間でした。この短い期間でもかなり多くの中国に関する情報と香港における各種企業及び華僑に関する情報を得ることができました。
 この当時の中国は鄧小平の南方視察での解放大号令以来の中国経済の発展に華々しいものがあり、特に沿海州の発展は目覚ましいばかりで、外国企業も我も我もと中国詣に精を出し、これにつられ香港経済も活況を呈していました。
 93年、94年での中国は国有企業体制改革、金融体制改革、投資体制改革、財政税制改革、付加価値税の導入、貿易体制改革そしてその後94年初頭には税制改革に伴う新税の実施と金融改革の一環として通貨や為替レートの一本化などが行われこれまで閉ざされ、西側諸国の体制と異なった社会主義制度も勢いを増して改善された時期であり多くの日本企業を含めた外資の参入及びビジネス運営面からこれまでよりやりやすくなると考えられるといった時期でした。
 よって、この状況に応じて情報収集は商社及び香港華僑への接触を図り、N社及びNI社につながるビジネス情報の入手取得を中心に動きました。
 この当時はN社と最も関係の深い情報通信は中国の安全保障の面から投資禁止項目となっていたこともあり、情報通信関係の許認可や接触は香港からは困難と感じ、北京事務所が電気通信の専門家によるコンサル業務や郵電部との接触などを行っていたのでそちらにお願いすることとしました。
 一方、香港事務所は各華僑の状況を見てみると幅広い販売・情報ネットワークを持つ日本商社を引き入れ、世界に向かって商売したいという考えが強いということが、時間がたつにつれわかってきました。そのためどこの商社がどこの華僑とつるんでいるかを調べました。
 その調査結果を短時間であるが調べた結果下記のようでした。
 三井物産、三菱商事、伊藤忠、兼松はそれぞれ各関連華僑グループと手を組んで活発に動いていました。それぞれの商社の目的としているビジネスは各種事業計画をもって関係華僑と中国でそれぞれ合弁会社を設立し各種ビジネスやプロジェクトの発掘を考えているようでした。
 その中でも筆者のこれまでのプロジェクト経験から見て対応してみようと思ったプロジェクト案件が数件ありました。その中でも当社に関係する通信インフラにかかわる案件に絞り関係商社と華僑財閥に接触しました。それは深圳~広州~マカオ環状線高速道路事業であり、この道路を通して、光通信幹線を通し、香港と中国間そして道路沿いの出入り口近くに造成する街への通信インフラを創設するといったプロジェクトでした。しかし、規模が大きく当面は香港~深圳~東莞市間に高速道路に沿って光通信幹線を通すということで商社、華僑そして筆者の3者でビジネスの可能性検証のためのルート調査に出かけることに合意ました。
 この時、感じたのは華僑の即断即決を尊ぶ中国式ビジネスは日本企業の手続きを含むスローな意思決定システムとは大きく異なるということで、話は驚くばかりの速さで進みました。そのためこの話はかなり早い速度で決まり筆者もこのプロジェクトになんとなく巻き込まれルート調査ということになったのです。この過程での出来事でしたが、今現在の習近平の中国では確実にスパイ罪で監獄入りになるようなことが起きました。
 香港から広東省に入り地図に従い車を走らせていたら道に迷い、広大な広場に突き当たり、車の出入り用の門があったので、そのまま銃剣を持った門番に事情を説明し(中国語での話だったので筆者にはその内容はわからなかったが)門内に入る許可を得ました。
 門の中に入ると道に沿って左は森のようになっていてところどころに左折する道があり右側はかなり開けたところでしたがそこには数十機のジェット戦闘機が置いてあり、みんなで少し変だと思いしばらく走ると突き当たりとなり、少し不安となり左折して4m幅程度の脇路に入り、もと来た道に戻ろうとそのまま真っすぐに進んでいたら、今度はその道に沿って枝のように狭い道がいくつもあってその狭い道路のそれぞれの奥にも戦闘機が隠れるように駐機していました。その時突然銃剣を付けた兵隊が出てきて我々の自動車の運転手に銃剣を突き付けながら中国語で運転手にいろいろと話しかけていました。多分出口はどのようにしたら良いかの話をしていたのだと思いますが、何人もの兵隊が出てきてどうなることかと不安になりました。同行の華僑人が道に迷って出口を探していたとの理由を説明し、兵隊の指示に従い何とかもと来た道に出ることができました。
 この当時はまだ天安門事件の前であり、鄧小平の支配下でもあり人民解放軍もあまり厳しい統制をしていなかった時代でもあり今考えてみるととんでもないことをしたと思っています。
 この当時、中国ビジネスは案件としてはかなり多種多様であり、どこの国も中国への投資に力を入れていた時代でした。筆者としてはあらゆるビジネスに関心を持ち日本のN及びNI社が関心を持てばさらに深入りして行こうと考えたが上記のようなこともあり、筆者個人で動くにはリスクもあり、この種のプロジェクトへの深入りはやめて、香港周辺の華僑や日本企業そして中国の政治状況の報告だけにとどめることにしました。
 そのような事情で今度は香港を中心にした当社に関係するビジネスを中心にした活動にしました。その活動の過程で香港内での携帯電話の普及が町中を見てみるとかなり進んでいることに気が付き調査をしました。これら携帯電話の運営は香港テレコムや華僑3社が運営事業をやっていることが判明し、本件をN社に報告した。(この当時はまだ日本では移動通信は自動車電話しかなかった)
 調査の結果、香港の携帯電話はまだ通信範囲も非常に狭く移動通信と言っても基地局アンテナから離れると通じなくなるし、早い速度で動くと話が途切れるような状態でした。
 この携帯電話について香港テレコムとも打ち合わせをしてN社にも携帯事業の参入にかかわるコンサルテーションペーパをいただけることになり日本に送付しました。
 しかし、筆者が香港にいる間は日本から何の音さたもなかったが、筆者が帰国してから1~2年ほどして日本でも携帯電話がPHP(後のPHS)と言われるものが筆者の記憶では1996年頃だったがN社から販売されることになり、その前に日比谷公園にてまだ初期段階のPHP性能テストを行うことになり筆者も関係者としてそのテストに立ち会った記憶があります。このPHPがガラ携と呼ばれ現在のスマートホンの原型になっています。その意味ではこのPHPの開発プロジェクトには直接かかわらなかったが香港からの情報が技術の開発と事業化、そして新事業開発の役に立ったとのかな!と思っています。
 この香港での短い駐在でしたがマーケッティング活動の基本の勉強を多いに学びプロジェクトの生まれる過程を勉強することができました。

 しかし、このように経済発展が著しかった中国も香港もその後はバブルがはじけ、筆者が駐在していた時期に比較し、現在では全く目も当てられない状況であり、その意味では現地での情報取得や分析といったことを考えるとマーケッティング調査といったものが企業のリスクを他よりいち早く認知することの手段として非常に重要であることがわかりました。

 なお、香港駐在は1年半とかなり短い駐在であったが、その理由はNi社の社長交代に伴い急遽その新社長からの帰国命令が理由であり、あわただしい帰国となりました。その後の香港事務所は閉鎖ではなくNCom社が引き継ぐことになり、筆者は帰国後すぐにNi社のプロジェクト統括兼品質関連の部門の責任者となるよう指示されました。

 そこで社長から帰国後すぐに筆者に与えられたミッションは以下のようなものでした。
 その一つがNi社全体の企業品質向上のためISO9001に従って、組織全体の効果的運営活動ができるよう企業組織全体の品質マネジメント体質の向上を活動の目的とするものでした。そのためプロジェクトチームを編成し、ISO9001品質マネジメントの国際規格に沿って各部門をまとめるといった要求でした。
 もう一つはN社がインドネシア中部ジャワにおいてインドネシア国際通信会社、オースタラリア電気通信会社そして日本N社の共同出資による多国籍ジョイントベンチャーとインドネシア通信公社によるPFI事業といった規模の大きなプロジェクトの事業進捗状況分析とその結果報告ということでした。

 この大きな課題を帰国後すぐに取り掛かることになりましたが、この2つの案件について同時に本書で報告するには読者も困惑するのでまずは来月号ではISO9001品質マネジメントについて何をどうしたかについて話をします。

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