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「エンタテイメント論」(208)

川勝 良昭 Yoshiaki Kawakatsu [プロフィール] :9月号

エンタテイメント論


第 2 部 エンタテイメント論の本質

7 本質
●AS-1(Advanced System-1)の開発秘話
 前号でAS-1、即ち「VR(Virtual Reality)式&セガ式業務用ゲーム機」の「開発秘話」を解説すると約束した。以下でこの約束を果たしたい。

 筆者と部下達は、セガ社で第1号となるセガ式テーマパーク「横浜ジョイポリス」の開発を1992年初めに開始。苦労の末、1994年7月20日に開園させる事が出来た。この時代、VRの事は日本で一部の人達しか知らなかった。

 当時、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)はVR研究で世界の最先端を走っていた。一方筆者は、下記の通り、「VRとの繋がり」を経験していた為、セガ社に於いて自然に「VR式&セガ式業務用ゲーム機」を作りたいと考える様になっていた。

 筆者はセガ社の研究開発部隊の賛同と協力を得て「VRアトラクション具現化案」を立案した。セガ社長に提案した処、予想に反して直ちに承認された。社長もVRに強い関心を持っていた為であった。早速、筆者の部下達と研究開発部の研究者達で「VR特別チーム」を編成した。彼等に「MITに勝とう!」とハッパを掛けた。

 彼等は見事に期待に応え、AS-1(Advanced System-1)と命名したVR業務用ゲーム機を実現させ、横浜ジョイポリスの目玉アトラクションに仕上げてくれた。しかもVR事業としても成功させくれたのである。

出典:ゴーグルを装着してAS-1で楽しむ観客 筆者のジョイポリス開発資料から
出典:ゴーグルを装着して
AS-1で楽しむ観客
筆者のジョイポリス
開発資料から

●日本のVR元年は1994年(ジョイポリス開園)、2016年は誤り。
 さて日本の学者、評論家などは「2016年をVR元年」と主張し、メディアもその様に報道している。飛んでもない間違いである。此れではVR特別チームの苦労の上の苦労や決死の努力は報われない。学者等のVR研究のいい加減さに強い憤りを感じる。

 筆者は強く主張したい。セガ式テーマパーク第1号の「横浜ジョイポリス」が開園した1994年7月20日こそがVR元年である。

 セガ社は今より約30年前に「VRの実用化(実機化)」に成功し、MITに開発競争で勝った。それだけではない。そのビジネス化(事業化)まで成功させたのである。しかもAS-1は、現在のHMD&そのシステムと比べて遜色がない機能を既に具備させていたのである。

●日本では昔も、今も、軽視、蔑視、無視されるエンタテインメント業界人
 彼等は何故、VR元年を間違えたのか? その答えは簡単である。彼等は昔も、今も、芸能人、お笑いタレントなどを含む「エンタテイメント業界に従事する人物」を軽視、蔑視、無視してきたからだ。そもそも彼等の関心の中に同業界人は存在しない。セガ社が今から約30年前、VRの実用化(実機化)とビジネス化(事業化)に成功させた事実を彼等は全く知らなかったか、知っていても同業界人に出来るはずはないと「無視」したからだ。

 「軽視」や「蔑視」は、相手を見下す酷い行動をする。しかし相手の存在は一応認めている。一方「無視」は、相手を見下すよりもっと酷い行動をする。相手の存在を否定したり、除外したり、相手から去って行ったりする。

 友人や知人などが「或る事」を理由に「或る人物」を「無視」し、その人物から「去って行く」と云う逸話は世の中に数え切れないほど数多く存在する。実は筆者も「或る事」で「或る人物」にされてしまった。

●無視され、去られた筆者
 筆者は新日本製鐵勤務時代、「或る会社」からヘッドハントされた機会に、定年の遥か前、取締役ポストを捨てて新日鐵を退職し、或る会社に転籍した。或る会社とは、不良のたまり場と噂されていたゲームセンターを構築・運営する一方、家庭用ゲームソフトを制作・販売する「セガ社」の事である(転籍理由は本稿で説明済)

 筆者がエンタテイメント業界のセガ社に転籍し事を知った途端、それまで親しく付き合ってくれた企業人(社長、役員、社員)の多くは、「手のひらを返す」様に筆者を無視し、去って行った。

出典:周りの人が去る
出典:周りの人が去る
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 しかしその後、筆者が「横浜ジョイポリス」を大成功させ、一躍有名になり、TV、新聞、雑誌等で報道されると、筆者を無視して去って行った多くの企業人は、これまた「手のひらを返す」様に筆者の処に舞い戻って来た。

 彼等は筆者を「重視」する事を「揉み手」で表し、スリスリ、ヘコへコ、ソンタクで以前の交流の再開を迫ってきた。しかし彼等は横浜ジョイポリスの成功の実態、原因、またVR式&セガ式業務用ゲーム機などに一切の関心を示さなかった。示した関心は筆者から「儲け話」を引き出す事だけだった。

出典:スリスリ、へコへコ、ソンタク
出典:スリスリ、へコへコ、
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●スリスリ、ヘコへコ、ソンタクのプロフェショナル達
 その後、横浜ジョイポリスを大成功させた筆者の事を知った岐阜県・梶原 拓知事は、筆者を直接スカウトした。紆余曲折の末、筆者は同スカウトを受諾した。知事は地方公務員試験を経た筆者を県庁三役(知事、副知事、理事)の岐阜県理事に任命した。

 民間人から正規官僚の県庁三役への「天上がり」は、戦後の地方自治体の歴史で初めての出来事と聞かされ、驚いた。筆者の事がTV,新聞、雑誌等で大々的に報道された。その結果、企業人だけでなく、学者、官僚、評論家、ジャーナリストなどが筆者との交流を求めて殺到してきた。

 筆者は此の時、「或る事」に気が付き、本当に驚いた。或る事とは、筆者を無視し、去って行ったが舞い戻って来た企業人だけでなく、新たに交流を求めて来た企業人、学者、評論家などの中に、其れと気付かせない「スリスリ」、嫌みと感じさせない「ヘコヘコ」、見事なまでの「ソンタク」ができる人物がかなりの数で存在していた事であった。

 彼等は常に成功者に積極的に接触し、スリスリ、ヘコへコ、ソンタクを高度に駆使し、自己に有利な結果を導き出す「プロフェッショナル」であった。言い替えれば、多くの成功者達は、彼等に操られ、餌食にされる可能性を常に持っている云う事である。「クワバラ、クワバラ」である。

 しかし筆者には、セガに転籍しても、岐阜県庁の三役になっても、従来からの筆者への考え方や行動を一切変えず、去りもせず、スリスリも、ヘコへコも、ソンタクもしなかった人達がちゃんと存在していた。筆者は彼等を最も尊敬し、重視し、彼等に筆者の重要な新事業プロジェクト等に参画して貰った。彼等は筆者の期待を超える働きをし、当該事業プロジェクト等を成功させてくれた。そして彼等と共にその成功を祝った。

出典:事業の成功
出典:事業の成功
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●VRと筆者の最初の繋がりは、VR創造者との出会い
 VR元年の話題から進展して、スリスリ、ヘコへコ、ソンタクの話題になった。ついては最初のVRの話題に戻りたい。

 筆者は新日鐡勤務時代、MCAユニバーサル・スタジオツアー・プロジェクト(USJ)を開発していた時、某人物の紹介で「或る人物」に会った。此れが筆者にとってVRとの最初の遭遇(Close Encounter)となった。

 或る人物とは、VR (Virtual Reality)の言葉と概念と技術を創造した「VRの父」と呼ばれるコンピューター科学者の「ジャロン・ラニアー(Jaron Zepel Lanier)」であった。

出典:ジャロン・ラニアー 筆者の所有写真ファイル
出典・ジャロン・ラニアー
筆者の所有写真ファイル

 筆者は彼と会った時、彼の独特の風貌に驚いた。VRについて色々と質問した。最初、全く理解できなかった。しかし彼はその事を理解し、丁寧に具体例を交えて、ゆっくりと分かり易い英語で答えてくれた。次第に分かり出した。彼は気さくで温かく親切な人物である事も分かり出した。

 彼は筆者に語った。「川勝さん、近い将来、VRは世界の新しい潮流になります」と予言した。その後、筆者自身がVRに直接関わる事になるとは、この時、夢想だにしなかった。そして彼の予言は見事に的中した。

●VRとの2度目と3度目の繋がりは、セガ勤務時代と岐阜県理事時代に夫々出現
 筆者はジャロン・ラニアーと会った事からVRへの興味が俄然湧き、VRの事をいろいろと調べる様になった。その後、筆者は新日鐡を退職しセガに転籍。

 筆者はセガ社で自然と云うか、当然と云うか、「VRをセガのアトラクションに使えないか?」と考えた。部下達や業務用ゲーム機の開発部隊と日々議論し、「VRアトラクション具現化案」を作成。VRとの2度目の繋がりを筆者自身が生み出した。セガ社長は同案に賛同&了承。頑張った結果、VRの実用化(実機化)に成功。AS-1の事業化にも成功した。既述の通りである。

 さて筆者のVRとの3度目の繋がりは、岐阜県理事時代に生まれた。岐阜県梶原知事は自らも参画し、積極的に推進した「ソフトピア・ジャパン計画」に筆者を参画させ、協力させた。

 此の計画には、IT人材の育成、ベンチャー企業の育成、IT研究開発やIT技術向上への支援、そしてVRの研究と実践等が含まれていた。
 ソフトピア・ジャパン・センター・ビルに約200社の優れたIT企業が集結。2000人以上のIT技術者が従事した。同センターは、当時の日本のITメッカとしての役割を果たした。

出典:ソフトピア・ジャパン・センター・ビル
出典:ソフトピア・ジャパン
・センター・ビル
https://www.softopia.info/

 更に岐阜県大垣市には「先端情報産業団地」が作られ、多くの企業や公益財団法人等が全国から同団地に集結した。この時期に「VRテクノセンター」も作られた。

 ソフトピア・ジャパン・センターも、VRテクノセンターも、現在、立派に活躍中である。筆者は岐阜理事時代、VRの普及とVR事業の活性化等に参画&協力した事を今も誇りに思っている。そしてVRと3度も繋がりを持った事に運命的なものを感じている。

つづく

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