PMプロの知恵コーナー
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サムライPM (025)
武道と士道の系譜 (その21)

シンクリエイト 岩下 幸功 [プロフィール] :6月号

2.武道としての武士道 (018)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 13)
⑤ -3. 火之巻 : (その 2)
 今号では、下記の項目について述べる。
04 : 枕をおさえる  《枕を押ると云事》
05 : 渡を越す  《とをこすと云事》
06 : 景気を知る  《けいきを知と云事》
07 : けんを踏む  《けんをふむと云事》

04 : 枕をおさえる  《枕を押ると云事》
   枕をおさえるとは、敵に頭(かしら)をあげさせないということである。勝負の道において、相手に翻弄《まは》されて、後手にまわることはよくない。何としても、敵を思いのままに翻弄したいものである。しかし相手の動きに対応することなしには《うけがはずしてハ》それはできない。それゆえに兵法においては、相手の打つところを止め、突くところを押さえ、組みついてくるところを引き離し《もぎ離し》などするのである。
 これに対し枕をおさえる《枕を押る》というのは、我が真実の道を会得して、敵に向かう《かかり合う》時、何ごとであれ、敵が思う兆し《思ふ氣ざし》を示さぬ内に、こちらはそれを察知して、敵の「打つ」というその「う」の字の頭をおさえ、その後の動きを封じること、これが枕をおさえるという意味である。たとえば、敵の「かかる」という「か」の字の頭をおさえ、「飛ぶ」という「と」の字の頭をおさえ、「切る」という「き」の字の頭をおさえる、これはすべて同じ意味である。
 敵がこちらに業(わざ)を仕懸けるときは、無用なこと《役にたゝざる事》は敵に任せて、役に立ちそうな事をこちらが押さえるようにする、これが兵法の第一に重要なこと《専》である。しかし敵のすることを、押さえよう、押さえようとするのは後手である。何ごとであれ、敵が業を仕懸けようとするその頭をおさえて、役に立たせず、敵を翻弄する《敵をこなす》こと、これが兵法の達者であり、鍛練の成果である。この枕をおさえるということ、よくよく吟味すべきである。
【解説】
 何ごとも先手を打つということが大切である。後手に廻れば遅れをとることは、人生の勝負においても同じである。「機先を制す」という言葉があるが、兵法だけでなくどんな場合にも、先手をとることは大事なことである。「枕をおさえる」とは、この機先を制するということを述べたものである。戦闘において、人はだれでも「敵を廻す」立場を押さえたい。相手にわが身を廻されて、後手につきたくない。
 意図と行動の間には必ず間がある。「打つ」という「行動」の頭をおさえるのではなく、それに先立つ「意図」の頭をおさえる。行動の頭では、既に遅く、後手になる。また、役に立たない事は敵に任せて、役に立ちそうな事はこちらがおさえ、敵に何もさせないようにする。「役に立たぬことはするな」というのは、「役に立たぬことは、敵にまかせろ」という意である。

05 : 渡を越す  《とをこすと云事》
   渡(と)を越すというのは、たとえば海を渡るに、狭渡(せと)という狭い所や四十里(160㎞)五十里(200㎞)もある海路を越す場合もある。このような危険な所を渡という。世間を渡るにも、一生のうちには渡を越すというような危険な場面が多くある。海路にあっては、その渡の場所を知り、あるいは船の能力《位》を知り、天候《日なミ》をよく知って、連れの舟《友船》は出さなくとも、その時々の状況《くらゐ》に応じて、あるいは横風《ひらきの風》に頼り、あるいは追風を受け、風が変っても二里三里は櫓(ろ)や櫂(かい)を使ってでも港に着けると確信して《心得て》、船をあやつり《のりとり》、渡を越すのである。そのように心得て、人の世を渡るにも、ここぞという大事な場面では、渡を越すという覚悟がなくてはならない。
 兵法においても、戦いの最中に、渡を越すということが肝要である。敵の能力《位》に応じ、自分の技能《達者》を自覚し、兵法の道理《理(ことわり)》によって渡を越すこと、これは優れた船頭が海路を越すのと同じことである。渡を越すということは、敵に弱みを着けさせ、こちらは先手をとって、勝ちおさめるということである。多人数の戦いでも、一対一の勝負でも、渡を越すという心持が肝要である。よくよく吟味あるべし。
【解説】
 ここぞという重大な局面、重大なポイントを乗り切ることを「渡(と)を越す」という。「渡(と)」とは境目の部分、生死の分れ目、運命が決まる重大な分岐点のことである。「渡を越す」というポイントを巧みに切り抜ける智慧を、船頭たちはもっている。同様に、渡世や戦闘においても、波乱や波風が立つ一大事の場面がある。これを越すに、船頭と同様、智慧と覚悟が必要であるという教えである。

06 : 景気を知る  《けいきを知と云事》
   景気を知るというのは、合戦など集団戦《大分の兵法》において、敵の勢い《景気》の隆盛衰退《さかへおとろへ》を知り、相手の軍勢の意図《心》を察知し、その場の状況《位》に応じ、敵の勢いをよく見分け、こちらの軍勢をどう仕懸け、兵法の道理《理》で確実に勝つということを確信して《のミ込て》、先手の効力《位》を知って戦うことである。
 一対一の戦い《一分の兵法》でも、敵がどの流派《ながれ》かをわきまえ、相手の強み弱み《強弱》やその性格を見分けて、敵の様子《気色》とは違うことを仕かけ、敵の調子の抑揚高低《めりかり》を知り、その間の拍子を知って、先手を仕懸けること、これが肝要である。どんな場合でも、景気ということは、こちらの智力が強ければ、必ず見えるものである。兵法が自由自在の身になると、敵の心を見抜いて《斗て》勝つという道が多くなる。工夫あるべし。
【解説】
 戦闘における「景気」とは、敵の勢いのことである。敵の勢いがどんな様子かを認識することを、景気を知るという。「敵を知る」と「景気を知る」には、静態的か動態的かの違いがある。「敵を知る」とは静態的な本質認識であり、「景気を知る」とは戦闘中のリアルタイムの動態的な作用の認識であり運動知である。静態的で分析的な認識を前提にして、こちらがアクションを起すだけではなく、相手の勢い(景気)に背反することを仕かけて、その抑揚変動するところを見てとり、「間の拍子」をよく知って、先〔せん〕を仕懸けるのである。重要なのはたんに景気の変動を知ることではなく、景気の変り目のその「間の拍子」を知ることである。その変動の変り目が攻撃チャンスだ、ということである。

07 : けんを踏む  《けんをふむと云事》
   けん《劔》を踏むということは、兵法においてもっぱら用いることである。合戦《大きな兵法》では、敵が弓や鉄炮で攻撃したその後に《はなしかけて》、こちらが攻撃しようとするから、その間に敵はまた弓をつがい鉄炮に弾薬をこめ《くすりをこみ合するによつて》、新しい攻撃体勢をつくってしまう。そのため敵を追い込むことができない。したがって弓や鉄炮の場合でも、敵が発射するその最中《内》に、攻撃を仕掛けることである。早めに攻撃すれば、敵は矢をつがうことができず鉄炮も発射できないわけである。どんな場合でも、敵の仕懸けたその意図《理》をすぐさま見抜いて、敵のする事を踏みつけて勝つ、ということが大事である。
 個人戦《一分の兵法》でも、敵の打ち出す太刀のあとを打てば、単調な打ち合いになって捗(はか)が行かない。敵の打ち出す太刀は、足で踏みつける気持で、敵の打ち出すところを打勝ち、敵が二度目《二つ目》を打てないようにすべきである。踏むというのは、足に限ったことではない。身体でも踏み、心でも踏み、もちろん太刀でも踏みつけて、二度と攻撃ができないようにする。これがすなわち、先(せん)の心である。これは敵の仕掛けるのと同時に、正面からぶつかり合うという意味ではなく、すぐさま後につく《跡に付》という意味である。よくよく吟味あるべし。
【解説】
 剣を踏むとは、相手の太刀を踏みつけにすることである。敵に攻撃させておいて、その攻撃を踏みにじる、蹂躙することである。合戦は最初、弓や鉄炮といった飛び道具の応酬で始まる。そのときの心得が《けんを踏む》である。攻撃がいったん終るのを待って攻撃に出ようとすると、後手に回ることになる。敵はその間に、弓をつがい鉄炮に弾薬をこめ、新しい準備をして攻撃してくるので、こちらは一向に攻め込むことができない。だから、敵が弓や鉄炮を発射している最中にこそ突進すべきである。素早く攻撃すれば、敵は矢もつがう暇なく、鉄炮も発射準備する時間がなく、敵は何もできない。すなわち、敵の攻撃の最中こそ、反撃のチャンス、というのが教えである。敵の攻撃を利用して、その攻撃を台無しにしてしまう。その結果、敵の攻撃そのものを敵の弱みへ転化してしまう。それが「けんを踏む」ということの意味である。
 敵の攻撃と同時に正面から衝突するのではなく、「すぐさま後につく」というのは、敵を攻撃させて、その間に打って出る。敵の攻撃から僅かに拍子を遅らせて取る「先」、あるいは「待の先」と呼ばれたものに近い。

【余話】 不動智
 「武士道」と「禅」は深く結びついているが、ここでは「不動智」について述べたい。不動智とは「こころをひとところにとどめない」ということである。「動中の静」と「静中の動」というものがある。「動中の静」とは、動いているときにも心穏やかに周りの状況を把握することであり、「静中の動」とは、じっとしているときにも常に周りの状況を読みいつでも動けるようにしておくことである。

 「不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)」(1624年~1645年)(出典:Wikipedia)
 江戸時代初期の禅僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう)による「剣法(兵法)と禅法の一致(剣禅一如)」についての書物である。別称を『不動智』、『神妙録』とも呼ばれる。徳川将軍家兵法指南役・柳生宗矩(やぎゅう むねのり)に与えられ、『五輪書』『兵法家伝書』等と並び、後の武士道に多大な影響を与えた。
 心が一つの物事に捉われれば、体が不自由となり、迷えば、心身が止まる。これらの状態を禅の立場から「達人の域ではない」とし、達人の域に達した武人の精神状態を、「無意識行動」かつ「心が常に流動」し「迷わず、捉われず、止まらず」であると説く。物質的な色法より精神的な心法(心の働き)を説いた兵法書であり、実技である新陰流と表裏一体で学ぶものとしている。(「理の修行、事(わざ)の修行」
 西洋諸国の身体運用法とは異なり、体に覚え込ませ無意識に働かせるという、意識からの解脱の考え方が日本には古くからある。「意識して動いている内は武人として未熟である」とした考え方自体は、禅の思想の流入以前からある。相手が太刀を振るう時に、かかって来ると思った瞬間から、自分の心は相手の動きに奪われている。相手の刀の動きも、タイミングも、自分の刀の動きも、心を奪われる対象であり、不自由になるだけであるとして、禅の立場から意識的に動いてはいけないことを諭す。無心で懐に飛び込めば、相手の刀も奪って逆に斬ることも可能であると「無刀」の心構えについて説く。不動とあるが、全く動かないという意ではなく、心は自由に動かし、一つの物、一つの事に少しも心を捉われていないのが、不動智である。10人が1人ずつ斬りかかって来た時、一太刀を受け流したとして、そのことに心が留まっていれば、即次に対応できず、10人に対して応じるには、10度心を動かすしかない。千手観音にしても千本ある手の内、弓を持った一つの手に心が捉われれば、残り999の手は全て役に立たない。一つに心が捉われていないからこそ、千本全ての手が役に立つ。刀を持つ場合も、構えなどに心を捉われてはならないとする。仏教における「理」は、つきつめれば無心となり、捉われない境地の意で、「事(わざ)」には、様々な技術がある。従って、合理を解するだけでなく、自由に動かす技術がなければならないとする。
 「不動智」は剣禅一如というだけでなく、現代社会を生きるうえでも極意といえる。

(参考文献)
「五輪書」 宮本武蔵 (著)、鎌田茂雄 (訳)、講談社学術文庫、2006年
(参照サイト)
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