PMプロの知恵コーナー
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サムライPM (019)
武道と士道の系譜 (その16)

シンクリエイト 岩下 幸功 [プロフィール] :12月号

2.武道としての武士道 (013)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 8)
⑤ -2. 水之巻 : (その 4)
 今号では、下記の項目について述べる。
09 : 表第一 中段の構え  《五つの表、第一の次第の事》
10 : 表第二 上段の構え  《表、第二の次第の事》
11 : 表第三 下段の構え  《表、第三の次第の事》
12 : 表第四 左脇の構え  《表、第四の次第の事》
13 : 表第五 右脇の構え  《表、第五の次第の事》
14 : 構えあって構えなし  《有搆無搆の教の事》
15 : 一つ拍子の打ち  《一拍子の打の事》
16 : 二つのこしの拍子  《二のこしの拍子の事》
17 : 無念無相の打ち  《無念無相の打と云事》
18 : 流水の打ち  《流水の打と云事》
19 : 縁の当り  《縁のあたりと云事》
20 : 石火の当り  《石火のあたりと云事》

09 : 表第一 中段の構え  《五つの表、第一の次第の事》
五つの基本型《表》について、第一は中段の構えである。敵に出会った時、太刀の先を敵の顔につける。敵が太刀を打ちかけてくる時、敵の太刀を右にはずして抑える《のる》。打ち下した太刀はそのままにしておき、敵がさらに打ってくれば、下から敵の手を打つ《はる》、これが第一の基本型である。
【解説】
 五方の構えについて順次述べる。第一は、中段の構えである。敵と遭遇したら、太刀先を敵の顔を向けて付ける。敵の体ではなく顔である。これは、相手にとっては、太刀の尖端が自分の顔に向いているから、威圧的である。相手が打ってくると、右に外して《のる》とある。相手が打つと、こちらも同時に打出すのを《のる》という。敵が打ってくると同時に、アグレッシヴにカウンター攻撃に出るのである。

10 : 表第二 上段の構え  《表、第二の次第の事》
第二は、上段の構えである。敵が打ちかかるところを、左右同時に《一度に》敵を打つ。敵を打ち外したときは、太刀はそのままにしておいて、さらに敵の打ってくるところを、下からすくい上げて打つ。もう一度打つ場合も、同じことである。
【解説】
 上段は、上に太刀をあげた構えから、敵が打かかるところを、左右の太刀を同時に振り下ろして敵を打つということである。振り下ろしても、次に下からすくい上げるという打ちが可能である。構え直したり、太刀を戻したりする必要はない。攻撃は連続的でなければならないということである。

11 : 表第三 下段の構え  《表、第三の次第の事》
第三は、下段の構えである。両刀を下段に引っさげた感じで持ち、敵が打ちかかるところを、下から敵の手を張る。こちらが手を打つ《はる》ところを、敵がまた太刀を打落そうとするのを、こちらは《こす》拍子で、上腕《二の腕》を横に切る気持ちである。
【解説】
 《こす》拍子というのは、上回る、凌駕するという意味である。敵の拍子を凌駕するというアグレッシヴなカウンター攻撃である。敵が打ってきた後、すかさず、こちらが「こす」拍子で敵の二の腕を切るのである。

12 : 表第四 左脇の構え  《表、第四の次第の事》
第四は、左脇の構えである。左の脇に太刀を構えて、敵の打ちかかる手を、下から打つ。こちらが下から打つのを、敵が打ち落そうとするときは、敵の手を打つ感じで、すぐさま敵の太刀筋を受け、自分の肩の上へ斜めに切り上げる《すぢかひにきるべし》。これが太刀の道筋である。さらにまた、敵が打ちかかる時も、太刀の道筋をうけて勝つことのできる方法である。
【解説】
 左脇の構えは、上方がつまって、左側にスペースがない場所での戦闘法である。左の脇に太刀を横に構えて、敵の打ちかかる手を、下から張る、というのが基本的な動作である。下から張る手を、敵が打ち落とそうとすることがある。そのとき、左下から右上へ、自分の肩の上へ、はすかいに切り上げる。

13 : 表第五 右脇の構え  《表、第五の次第の事》
第五は、右脇の構えである。自分の右脇に横に構えて、敵が打ちかかるところに応じて、わが太刀を下の横から、はすかい《筋違》に上段に振り上げて、上から真っ直ぐに切るのである。この基本で太刀を振り慣れると、重い太刀でも自由に振ることができるようになる。
この五つの基本型については、事こまかに書きつけることはできない。この五つの太刀筋によって、たえず自分の技を磨くようにするのである《不断手をからす所也》。わが流儀の太刀のふり方を一通り知り、だいたいの拍子も覚え、敵の太刀筋を見分けることができるようになる。敵と戦う最中にも、この太刀筋を熟練《から》して、敵の心に応じて、いろいろの拍子で、いかようにも勝てるのである。よくよく心得なければばらない。
【解説】
 五方の構えの最後は、右脇の構えである。上もつまり右脇もつまって、スペースがない時に用いる。最初から上段においた太刀を振り下ろすのではなく、下から上へ振り上げて、それから切り下ろす。この振り上げ、切り下げの連続運動が、右脇の構の特徴である。太刀のスムースな運動そのものを活用した打ちである。このやり方で太刀を振り慣れると、重い太刀も自由に振れるようになる。
 どんな技術でもそうだが、書いたものを読むだけではなく、実際に太刀を持って、体で会得しなければ、語られた言葉の意味は理解できない。敵と戦う最中でも、この太刀筋を総動員して勝つのである。敵の心に応じて、いろいろの拍子で、いかようにも勝てる。すべて太刀の構えは、この五つの方法以外にはない。

14 : 構えあって構えなし  《有搆無搆の教の事》
構えあって構えなし《有搆無搆》というのは、太刀を形にはまって構えるということは、あるべきではない。太刀は、敵の出方により、場所により、状況にしたがって、五方の何れに太刀を置いたとしても、その敵を切りやすいように太刀を持つのである。上段も、時にしたがい、少し太刀が下る感じであれば、中段となる。中段も、場合により少し上れば、上段となる。下段も、時によって少し上れば、中段となる。両脇の構えも、状況により、少し中へ出せば、中段、下段ともなる。従って、構えはあって構えはない、というわけである。
 まず何よりも、太刀を手に取っては、どのようにしてでも「敵を切るのだ!」という心持である。敵の切ってくる太刀を、受ける、張る、当る、粘る、触る、などと云うことがあっても、それはすべて、敵を斬るきっかけであると心得るべきである。受けること、打つこと、あたること、ねばること、さわること、そのことに思いをよせるならば、敵を斬ることが不十分になるであろう。何ごとも敵を切るためのきっかけと思うことが肝要である。どんな場合でも、きまった形にとらわれる《居付く》ということはよくない。よくよく工夫すべし。
【解説】
 《有搆無搆 (うこうむこう) 》とは、「形に捉われるな」という教えである。武蔵の基本的なスタンスは、「実戦においては、構えなど、どうでもいい」ということである。構えの形式に何の意味もない。何のための構えなのか、太刀を「五方」のどれに置こうとも、戦場の実戦においては、敵を切りやすいように太刀をもつというだけである。受けると思い、張ると思い、当ると思い、粘ると思い、触ると思うと、そのことによって、切ることが不十分になる。構える心があると、太刀が居付き、身も居付き、動きがにぶくなる。構えや形にこだわっていると、人は切れないぞ、敵を殺せないぞという、戦場の実際論が武蔵の本旨である。

15 : 一つ拍子の打ち  《一拍子の打の事》
敵を打つ拍子に、ひとつ拍子《一拍子》というものがある。敵と自分が当るほどの位置を得て、敵の心の準備ができないのを心得て、自分は身体も動かさず、心も起こさせず《つけず》、すばやく一気に打つ拍子である。敵が、太刀を引こう、外そう、打とう、などとおもう心が起こらない内に打つ拍子、これがひとつ拍子である。この拍子をよく習得して、間(ま)の拍子を早く打つこと、鍛練すべし。
【解説】
 敵の攻撃の心が起きる前に、機先を制して攻撃する、つまりは「先の先」の攻撃である。
 攻撃しようとする意図 (intention) は、すぐに表に現れる。心の動きは内面的なものだが、それは必ず気配として表出される。それが察知されるのを防ぐために、《心も付けず》といって、自分の心や身体とは無関係に、太刀 (手) が勝手に動いてしまう、そんな攻撃メカニズムのことである。

16 : 二つのこしの拍子  《二のこしの拍子の事》
二つのこしの拍子とは、こちらが打ち出そうとすると、敵が早く引き、早く張り退 (の) けるような時、こちらが打つと見せかけて、敵が張って、一瞬、弛 (ゆる) むところを打ち、引いて弛むところを打つ。これが二つのこしの拍子である。
【解説】
 自分が打つと見せかけて、つまり、フェイントをかけて、敵が張って弛 (ゆる) むところを打ち、引いて弛むところを打つ。相手の反応 (張り、引き) を誘発し、その直後の一瞬の弛みを引き出して打つという二拍子の攻撃である。つまりは「後の後」の攻撃である。

17 : 無念無相の打ち  《無念無相の打と云事》
無念無相の打ちとは、敵も打ち出そうとし、自分も打ち出そうと思う時、身も打つ身になり、心も打つ心になって、手は何時となく、空 (くう) から遅ればせ《後ばや》に、強く打つことである。これが無念無相といって、我が流派では重要な打ちである。この打ちはさまざまな状況で度々使える打ちである。
【解説】
 無念無相の打ちとは、身も心も打つ気になっているのに、肝心の手の方は、いつとはなく「空から」遅ればせに動くという。禅語でいうところの「身心脱落 (体も心も一切の束縛から解き放たれるということ) 」の状態からの、無意識の攻撃である。

18 : 流水の打ち  《流水の打と云事》
流水 (りゅうすい) の打ちとは、敵合《敵あひ》になって競り合う時に、敵が早く引こう、早く外そう、早く太刀を張りのけようとする時、こちらは身も心も大きくなって、太刀を我が身の後から、いかほどもゆるゆると、淀み《よどみ》のあるように、大きく強く打つことである。この打ちを習得すれば、たしかに打ちやすいものである。
【解説】
 この流水の打ちは、意図して遅れるという拍子である。この攻勢は、素早く一気にどっと出るという常識とは逆に、できるだけゆっくりと淀みのあるように、緩慢に出ろという教えなのである。敵合 (敵相) になって競り合っていて、敵が引く一瞬をとらえて攻勢に出る攻撃である。「流水」の打ちとは、実は「流水の淀み」の打ちである。早いばかりが拍子ではない。この攻勢は、素早く一気にどっと出るという常識とは逆に、できるだけゆっくりと淀みのあるように、緩慢に出ろという教えである。

19 : 縁の当り  《縁のあたりと云事》
縁 (えん) の当りとは、こちらが打ち出すと、敵は打ち留めよう、張りのけようとする、その時、こちらは打ち一つで、頭をも打ち、手をも打ち、足をも打つ。《太刀の軌道一つで、どこなりとも打つところ》、これが縁の打ちである。
この打ちは、よくよく打ち習い得れば、どんな場合でも使える打ちである。何度も練習し、分別しておくべきことである。
【解説】
 太刀の軌道は一つで、どこなりとも打つというのは、打つ場所によって太刀筋が異なるのでなく、同じ軌道でどこへでも打つということである。当る場所は「相手次第」だということで、「縁の当り」という。結果的にどこを打撃するかは、その被害者自身がもたらした縁によるのである。

20 : 石火の当り  《石火のあたりと云事》
石火 (せっか) の当りとは、敵の太刀と我が太刀が触れ合うほど接近した状態で、我が太刀は少しも上げずに、できるだけ強く打つのである。これは、足も強く、身も強く、手も強く、足・身・手一体となって早く打つべきである。この打ちは、繰り返し《たびたび》練習しなくては、打つことはできない。よく鍛練をすれば、強く当たるようになるものである。
【解説】
石火 (せっか) とは、火打ち石を打って火花が散る、そんな一瞬のことで、「心の留まるべき間のなき事、間に髪を容れずの応答」ということである。運動量は小さいが、運動エネルギーは大きい、足・身・手一体となってガッという瞬時の攻撃が「石化の当たり」である。

【余話】
五方の構え  武蔵の教えは、常に実践的で具体的である。五つの基本型《表》として、五方の構え (中段、上段、下段、左脇、右脇) を説いたのちに、《有搆無搆》の教えでは、それを再度ぶちこわし、「構えあって構えなし」を説く。構えにこだわっていると、敵を切れないぞ、という教えである。
 戦が無くなり平和な時代になると、武士は官僚化し、様々な分野で形式主義と精神主義が幅を利かすようになる。それに従って、戦闘術は実践性を離れ、分節化が進み、構えはますます細分化形式化されていく。しかし、戦国時代の生き残りの武蔵はこの流れに抗して、飽くまでも、実践的で具体的である。「敵を切る!」「敵に勝つ!」という最終目標に全てが集約される。例えば、「顔を突く」「手を打つ」「手を張る」というように、攻撃箇処が敵の胴体ではなく、顔や手であるのは、甲冑で防護されていない部分を狙うためである。実戦では、甲冑で防護されていない部分を狙う。顔はもちろん、手を損傷させれば、敵は戦闘能力を失うからである。戦場での実戦の教えである。
 「PM論」においても、目的と手段がごっちゃになり、形式主義に陥るケースが多々ある。飽くまで、PMの最終目的目標を見失うことがないように、手段としての「PM論」を活用しなければならない。そのためには、真の目的目標を炙り出す、プログラムマネジメントに注力しなければならないという主旨である。

(参考文献)
「五輪書」 宮本武蔵 (著)、鎌田茂雄 (訳)、講談社学術文庫、2006年
(参照サイト)
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