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「厳格に時間を守ることは人間を幸福にするか?」

イデオ・アクト株式会社 代表取締役 葉山 博昭:7月号

 日本では何事でも時間を守ることが非常に美徳とされ、鉄道の発着時間が殆ど予定通りに運行され、日本に来る外国人、外国での報道でもその正確は驚異の目で見られ、日本人は時間を守ることは、日本の優れた点と評価されていると思いこんでいる。確かに一日数本の電車が予定通り発着しない場合、早く駅に着いて待つか、駅についてから長い時間を待つことになり不便というか、いらつかせられることもさることながら、他に出来ることが出来なくなるという効率の悪さを生む可能性があり、出来る限り予定時間通りの方が好ましいだろうと誰しも思うので、日本では時間を厳しく守ることは極めて重要な常識となっている。
 この風習は日本古来のものだったのだろうか?時計が無い時代は分秒まで正確に期すことはできない、日単位での正確性、日の沈むまで、暗くなるまで、夜が明けるまでというような感覚が正確さの限界だったのだろう。分秒まで正確さを求めるようになったのは正確な時計ができるようになってからで、分秒まで正確に物事を行うのは日本人本来の持っている性質ではないのではないだろうか。分秒まで正確に行わないと不都合なことが日本にあるのでないだろうか?一定時間内に可能なことを限界まで行わないと必要性を満足しないようなことがあることが原因なのではないだろうか?一時間に10両連結の電車を20本運転しないと需要を賄えないほど人口が過密になり、移動する人口を発生させてしまったことが原因で、鉄道を限界のスピードで走らせ、2分30秒に一本運行しなければ、必要とする労働力を、必要とする時間働き生産を行わなければならなくなってしまう経済状況が分秒まで正確に行う習慣を作った原因のように思う。確かに人と待ち合わせるのに1時間も2時間も待たされるのには耐え難いが、5分10分前後することに筆者は不愉快なものは感じない。多数が集まる場合はどうだろうか、全員が5分10分時間を前後して不愉快でないなら良いが、前の作業を次ぎの仕事の開始合わせて調整して予定時間通り時間を守っている人間にとって、予定より会議が早く始まったり、遅く始まったのでは、なんのために前の作業を調整してまで時間を守っているか分からないので、集団でなにかの生産的仕事をする場合は筆者でも時間を厳守すべきだと思う。そのように思う人間が多いのが日本人全体の性質とも言えるだろうが、民族、国、地方によってはそうように思う人間が少数の場合がある、そのような環境に日本人が入った場合時間通りに物事は始まらないいらつきを表しても、だれからも同情されないどころか不思議に思われてしまう。
 人口密度の高い日本で極めて高い生産性を確保しようとしてきたことが時間厳守という文化を作ってしまい、国際的にも評価され、それが日本としての常識であり、世界で最も良い習慣と思い込んでしまったのではないだろうか。日本は最近では中国にあけわたそうとしているがGDPは世界二位であり、一人当たりの所得も高く(年々下がっているが)、幸福感も高いような気がしていたが、いくらGDPを上げても幸福感は高まらない。時間を厳守することは多大な個人的努力を必要とし、国民全員に多きいストレスを与えてしまったのではないだろうか。特に首都圏の人口密度の高さ、通勤時間の長さにおいて、正確さ期すことは、個人の気持ちの余裕を無くし、感覚を表現しない能面のような人間とならないと実現しないものだったのだろう。時間を厳守するというストレスが人間から余裕を奪い、個人の幸福感の一部を削っていることに2011年の日本人はまだ気がついていない。
 人口密度の低い地域で職住が近接し、分秒を争わなくて済む環境では家族とともに過ごす時間は2時間も3時間も多くなることだろう。どちらの環境のほうが個人の幸福感は増すか、だれが考えても後者の方だろう。だが高密度で生産活動を行う地域で結婚も出来ないほど仕事に時間を取られ、周りの人間から総スカンを食うような人間性の乏しい企業人間が、業績主義とかいう訳の分からない評価制度で会社経営者になってしまっているようなケースもあり、人間としての幸福度を上げる努力を日本の企業は全くしていない。これではこの国で生きていても人間としての幸福度は上がらない。
 日本の建築基準法は人口密度を上げる為に最大の努力しているのであって、決して個人の幸福度が増すもの造ることを目的にしていない、本来の国民の安全、幸福度を増すように努力して改正されてこなかった。より狭い所にいかに多くの人口を吸収出来るようにするかの基準でしかない。道路は明治から広がらず、袋小路はなくならず、3階以上の建築可能な地域は際限もなく広がり、今や山手線の中全て超高層可が可能なようになってしまい、日照権も緩和され超高層の前に超高層が隙間なく建ち、風は通らずヒートアイランド現象をひどくしておいて、原子力発電所が破壊されたから冷房を入れるなといわれても、現在のような高密度な首都圏で冷房を入れないと熱射病でどのくらい死ぬか分からない。即人間が死なない程度の原発の破壊だが、その原発の停止は多くの人間が死ぬ危険性をマスコミも報じていない。即原発を停止できるほど簡単な社会構造ではないことも論じるべきだろう。
 これは個人的提案だが、ビル、住宅の一割は撤去し空間増すこと、道路から1mは道路に編入し道路を拡張すること、袋小路は禁止すること、風の通り守る規制を行うこと、建坪率は戦後直後並に戻すこと。住宅の最低面積は狭小住宅を脱するため、一人当たり25平米以上(これは決して広くない、韓国では当たり前、中国の中産階級のマンションでも日本より広く、質も高い)とするなどストレスを産まない環境造りが行えるよう建築基準法を変えることが必要であろう。動物は一定の密度になるとそれ以上に数は増えない、人間だけが際限なく増殖することが可能なのだろうか?又美的センスの無い建築物を抑制することも情緒の安定には必要(ヤマダ電機、K’s電気、パチンコ屋等およそパリだったら建たないと思われる醜悪な建築物の禁止、行政には美観維持の責任もある)、狭い道路をより狭くする見苦しい電線、電話線は地中化すること。経済的需要はまだまだいくらでもあり、職業を産みGDPを拡大し個人所得を上げないと十分な社会保障も可能とならない。現在のままでは需要を喚起出来ず経済はより縮小し、貧しい国なってしまう。まだまだすべきことは多い。
 首都機能の分散する程度の議論が最近また始められているが、遷都を提案したい、寒すぎない、より気温の低い所(冷暖房が最小で済む地域)に遷都し、100万人200万人規模で首都圏の人口を移し、大都市の高密度空間を被災した場合の避難場所に空けることをしないと、現在のような状況で先般のような大地震に首都圏は耐えられない。
住宅地にも空間を設け良好なコミュニケーションが出来るオープンな施設を設けないと災害時の助け合いもできないことになる。非難住宅の建設出来る余裕もない、原発反対だけを言うのではなく、電力の消費量を下げ、人口密度を下げ、災害に耐える街を造り、良好なコミュニケーションを行える首都圏を再構築しないと地方の活性化も、都会の孤独から脱しない限り、日本人の幸福感は増さないのではないだろうか。

 日本が個人の幸福度を上がるためには、考え、行うべきことまだまだあると思うが、だれが考えるのか、政治家なのか?日本人全員のパラダイムシフトを行わないといけないのではないだろうか。
以上
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