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「グローバルPMへの窓」第7回
PM資格の話◆その2

GPMF会長  田中 弘:4月号

  今回は、PMI®のPMP®資格が米国で誕生した頃と日本への導入の頃の話をする。
世界のPMPR資格保有者は、2004年12月から2005年12月までのたった1年間に、世界でなんと年率47%の増加率を示し、18.5万人に達した。この時点でのPMI会員数が21万人であるので、いかにPMPの増殖率が高いかが分かる。とくにアジア・太平洋のシェアは25%に達するとのことである。
 そのPMPであるが、認定制度の誕生は1984年10月のフィラデルフィア市(PMIの本部所在地)で開催されたPMI年次大会でのことであった。筆者は、1979年からPMIと協力協定を結んでいる(財)エンジニアリング振興協会のPMI大会派遣団10名の一員として当地でのPMI大会に初めて参加しており、この歴史的な出来事を目撃する幸運に恵まれた。
 約50名の、エンジニアリング業界や国防産業界のベテラン・プロジェクトマネジャー達が小1日筆記試験と格闘している姿には正直びっくりした。ちなみに、当時のPMIはクラブ的な雰囲気があり、まだ若手はあまりいなかった。
 PMI理事たちが、"No grandfather system" であると自慢していたのが印象に残っている。つまり、認定申請者にいかに輝かしい実績があろうと、いかにPMIに貢献があろうと、PMP試験では一切お情けなし、ということである。試験を終えて出てきた歴戦の強者たちは、口々に「まいったよ、もう試験はコリゴリだ」とぼやいていた。
 さて、この当時のPMP認定試験は何に基づいて行われていたか?PMBOK® が知識体系の形をなんとか整えたのは87年であるので、拠って立つ客観的な体系があったわけではなかろう。この当時を知る歴史の証人がほとんどいなくなり、正確なところは分からないが、筆者の米国でのPMの師匠がその後語ってくれた話によると、PMIの指導者でもあった大学教授を中心とする試験委員会が問題を作成して行っていたようである。
 このような、出題なんでもあり、の頃にPMPに認定された人たちは、実績もさることながら、実に博識であったと言えまいか。
 ちなみに、この記念すべき第1回PMP試験に敢然と挑んだ日本人がおられる。千代田化工建設株式会社で初期の大型LNGプラントの工事などで活躍し、取締役にもなられた故T氏(後に工学博士)で、アメリカ出張中にこの認定試験のことを知り、フィラデルフィアにやってきたそうで、PMの試験と聞いて血が騒いだのであろう。残念ながら氏の挑戦は成功しなかったが、米国人とカナダ人ばかりの受験者のなかで、同氏の挑戦は日本PM界の意気込みを示すこと大であった。筆者が後に米国にまで出かけてPMPに挑戦したのは、一つには、この同じエンジニアリング業界の大先輩の心意気に感じるところがあったからである。
 さて、PMPも、その後87年にオリジナルのPMBOK 87年版ができてから、少しずつ挑戦者が増え始め、北米外では、南アフリカ、西オーストラリア、ニュージーランドなどで認定者が数百名に達していたが、日本人PMPが生まれたのは1990年代になってからである。
 日本人第1号は(株)ピーエム・コンセプツ社長の長尾清一氏で、米国でPMコンサルタントとして活躍されていた93年に取得されたとうかがっている。ついで、竹中工務店の関谷哲也氏と坂本弘光氏が米国研修勤務中に、また94年には千代田化工建設(当時)の山田直樹氏がテキサス大学大学院に留学中にPMP認定を受けている。
 ここまでが米国留学あるいは研修中に取得された方々で、日本から米国に受験しに行って認定を受けた第1号が筆者である。勤務先で副本部長であった96年、52歳のときであった。筆者は受験地にワシントンDCを選んだが、当時(第一世代)のPMP試験は、現在と異なり8科目x 40問あり、全科目で70%以上の正答率を得ないと合格できないというタフな試験であった。8科目を午前・午後3時間ごとに分けて行うものであるが、開始前に筆者が弱いところの参考資料に目を通していたら、「あなた、この期に及んでじたばたしたって始まらないよ」と言っていた隣のおじさんは、午前の部はなんと1時間で160問を片付けて退出した。筆者も午前は、スコープ、コスト、スケジュール、調達といったエンジニアリング業所属であれば紛れることがない領域の科目であったので、約1時間を余して終えることができた。これで自信をつけたものの、午後の部では、ソフトPM系の問題で、大苦戦をした。この頃の問題は、米国内のビジネス事情に通じてなければ分からないような問題がかなりあった。
 これで疲れ果てて、翌日はワシントン市内を見物する予定であったが、繰り上げて帰国した。機中では、自己採点では2科目は落とした、すでに航空運賃だけでも60万円使っているので、再挑戦はできるかな、と浮かぬ気持ちであった。しかし、数週間して、全科目合格の通知が届いた。当時はまだPMPは4千名程度であったので、米国に行くたびに、お前日本人なのにどうしてPMPになれたのだ、と不思議がられた。私より先にPMPになった4名の方々(すべてPMAJ会員)はさぞ尊敬されたことでしょう。
 この貴重な経験があって、翌97年、日本IBM社などで、日本でのPMP試験実施のニーズが起こり、筆者がPMIに指名を受けてプロクター(試験統括官)となり、6月に第1回PMP筆記試験(当時は紙と鉛筆のクラシックスタイル)が無事実施され、また秋には日本NCR社主体で、試験が実施されて、日本のPMP時代の幕が開いた。 まだ、第1世代の方式である、8科目・英語での試験であった。当時は、日本のPMP数が10年後に今日の1万数千人規模になろうとは私ですらとても想像できることではなかった。◆◆◆