グローバルフォーラム
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「グローバルPMへの窓」(第78回)
アジアより

グローバルPMアナリスト  田中 弘 [プロフィール] :4月号

 あっという間に春めいてきた。この原稿を金沢で書いているが、一昨日、昨日とまさに春である。今年は1月のスエーデンの厳冬、その直後の西アフリカ セネガルの、まるで夏、日本に帰って2月の厳冬、記録的な大雪、そして今月中旬に中国蘇州での初夏のような春と、気温の急高下(最大落差38度)と向き合ってきたが、なんとか適応できている。その間、一回横浜市内の電車のなかで風邪をもらったのは不覚であったが、仕方がない。
 今月から海外出講を再開したが、第1週、第2週はウクライナの大学のジャーナルに提出する論文2件を仕上げ、第3週は中国・蘇州で過ごした。第4週(今週)は、金沢で開催された国際会議に出席しており、今日25日終えたところだ。週末30日にはフランスに旅立つ。
 蘇州にはフランスの大学院の仕事で、当地在住の社会人学生の指導のために行った。中国では、一人っ子政策の下で、上流・中流階級の親が子弟に高学歴を付けさせるために親子で猛烈に頑張る傾向があるが、高学歴志向はその親たちにも及んでいる。社会で順調に階段を上った人たちが、管理職(時には上級管理職)を務めながら、高等教育の続きに取り組むというのは実にすばらしい。

 蘇州は大変趣のある都市である。上海から内陸側の隣になるが、人口は実に1千万人であり、2回目の訪問となった今回、市内を巡る機会があったが、山手線の内側くらいの広さに、新宿、渋谷、秋葉原、品川のような地区はすべてあり、無いのは坂がある住宅地と銀座だけである。
 重厚長大の工業はほとんどなく、産業といえば電子産業や、消費者商品の製造産業である。文化の都であり、中国きっての名庭園もいくつかある。
 蘇州料理は他の地域料理(中国外で食べたのがほとんであるが)と比べると淡泊であり、地産の旬彩を少しずつ楽しむというもので、日本人の味覚にもよく合う。宿泊していたホテルには特製のラーメンがあり、麺は日本のそばの細麺によく似ていた。スープが実に美味であるが、創り方は秘伝であり教えてくれなかった。濃厚であるが、どうも蛇のエキスが決め手のようだ。
 東洋の水の都といわれ、市内に運河が縦横に走る蘇州には山糖街というすばらしい水郷ツーリスト・スポットがある。鉄道と海と川が大好きな私には山糖街はここ数年で最もはまった街区となった。明朝時代から栄えて、水の便に恵まれて豊かな商家街であったが“中共”時代に一旦荒廃した。しかし、折からの海外からの中国観光ブームと経済成長を背景とした蘇州への国内観光客を取り入れるべく、地域再開発プロジェクトとして復元されたとのこと。運河沿いの街区の立派な店には蘇州地区の伝統工芸品がずらりと並び、どれも決して安くはない。例えば、2m x 50cmくらいの繊細な刺繍壁掛け画は20万円を下らない(日本では倍近くするであろう)。
 帰国の前日、本場の気功マッサージを体験することができた。団地の普通の家で開業している盲人のセラピストの施療院に連れて行ってもらったのだが、日本であちこちにある中国気功整体(回数券方式)とは異なり、セラピストの手が首・肩に触れただけで、体にバイブレーションが起こった。手に低周波電波発生器が仕込んであるのかと思ったが、そうではなく、月に数回マッサージを受けている私の身体は、セラピストが発する気によって、触っただけで反応するのだそうだ。

 開けて今週は金沢の金沢工業大学がホストを務めるCDIO Asia Regional Conference という国際工学会議に出席した。CDIOはスエーエデンの名門工科大学3校と米国MIT(マサチューセッツ工科大学)が発起人となり2000年に発足した高等工学教育(要するに工学部教育)改革運動であるが、趣旨は、1980年代を境に工学教育の退歩が始まり、先進国では工学教育を志す高卒者が大幅に減少し、あるいは、理工系人気学科が、ものづくり系から情報系に移り、豊かな生活しか知らない世代の学生の生活観、教員の環境変化への対応の遅れ(工学教育のタコツボ化など)、があり、いまここに工学教育の原点回帰を図ろうという世界運動である。私は、モスクワ国立文理大代表として1月のヨーロッパ大会に続いて参加した。
 大会にはアジア太平洋諸国+スエーデン(リーダー国)+ 米国 + ロシア(2名)が参加して、大変盛況であった。工学教育ではアジアでもまだ日本は先端であり、相対的には日本の工学教育は大きな強みを世界的に持っていると思うが、何より感銘を受けたのは、金沢工大が世界的にも極めて優れた原点の工学教育を実施していること(海外からの参加者も絶句)と、的確な大会運営そして素晴らしいホスピタリティーであった。
 プロジェクトマネジメント研究者として驚愕したのは、金沢工大が、完ぺきなPBL (Project Based Learning: プロジェクト制教育)を取り入れていることである。PBLを唱える教育機関は世界で種々あるが、ほとんどが、それらしき形式のみである。私も単身、3か国で教育改革的な試みに参加しているが、今回の金沢工大での国際大会では、プロジェクトマネジメントの、学の世界ではとて も手に入れることができない貴重な現場を見せていただいた。また、キャンパスには、どうしても日本と思えない幻想的な美しさがあった。

 いま私の大きな砦であるウクライナは政治・経済的に大変な危機に当面している。しかし、世界最強のウクライナPM学会は揺るがない。ウクライナ各地にいる仲間のPM学者たちに変わりはなく、私も2月から3月にかけて3本の論文をウクライナに届けている。一方、困ったことは、ロシアでの私の現下のプロフェショナルとアカデミック両方の活動はあくまで、ウクライナの教授あるいはウクライナPM協会の国際幹部としての活動であり、ウクライナの大教授と助手と一緒に展開をしているので、こちらは当面全く動きがとれない(彼らはロシア系であるが)。
 クリミア事変のことは涙に絶えない。2012年秋にクリミア紀行をこのコラムに載せたが、南クリミアはこの世に残された楽園である。拳を揚げた方も、クリミアの住民も、スラブ民族特有のダバイ・ダバイ(それ行け・それ行け)文化で、気持ちが昂揚しているうちはよいが、後に残るのは膨大なツケではないであろうか。
 クリミアはウクライナ人にとって、生きる楽しみともいえる一年に一回の3週間の夏季静養の場であり、これからどうしたらよいのか。それにしても、クリミア駐屯のウクライナ軍兵士のうち、9割が、ウクライナ本土への帰還が認められたにもかかわらず、ロシア軍に帰順したということこそ、同じ国から分離されて4半世紀でできた埋めがたい経済格差を示していると言えよう。(帰順した兵士の給料が4倍になるという報道は、私自身が実感したモスクワとキエフの物価の差三倍強とほぼ一致している)。
 ソ連時代に、自分の出身共和国ウクライナにクリミアをロシア共和国から移譲したフルシチョフ元首相は天国で、そして、ソ連解散時、ロシア共和国からクリミアをロシア連邦に戻すようにと強い声が起こったにもかかわらず、これまた自分の出身のウクライナに残したゴルバチョフ元大統領は、いま、なにを思っているであろうか。  ♥♥♥


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